南アの作家・J.M.クッツェー(J.M.Coetzee)を読んだのは2年以上前。
その当時私はアフリカ行きを決意し、積極的に情報を集め始めた訳だ。その初期に読んだのだ。
ノーベル賞作家である、とりあえず押さえておこうと手に取ったが、つまらなかった。印象に欠けると感じた。従ってこのブログには取り上げなかった。
それが、なぜだか今になって急に思い出されてしょうがない。なぜ今?!
ちなみに読んだのは『マイケル・K(Michael K)』('83)と『恥辱(Disgrace)』('99)の2冊。ノーベル・・・の肩書きにつられて2冊も付き合ったが、
参った。クッツェーという人の世界は何と暗いんだと、殆ど呆れた。
(しかしその後読んだ
ナディン・ゴーディマ/Nadine Gordimer は更に輪をかけた暗さだった。。。)
しかし
その暗さの理由が今!・・・はまだ分からないが、
分かりたくて仕方ないという、私の胸中は妙な雲行きなのである。
しかしなぜ。しかもなぜ今。
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『恥辱』の主人公は大学で英文学を教える独身中年教授。一見社会的に立派な生活者のようだが、ちょっとしたスキャンダルであっさり職を放棄。一人暮らしの実娘(こちらも結婚という生活スタイルを否定し自立して一人で農業に従事して暮らしている)の元に身を寄せることになる。
そして二人は近所の黒人に襲われる。
読者の反感を物ともせず無知で強引な黒人の蛮行を写実的に描きながら、異常な現実を受け流す父と娘2人の諦観もまた穏やかに綴るクッツェー。
共存というよりむしろ寄生。知識階級の白人が田舎の部落で黒人農夫の傘下に身を落ち着ける、そんな人生がアリなのか?!
赦しというよりむしろ寛容。でもレイプを寛容、そんな心境がアリなのか?!
まさに「猿の惑星」である。
アステカ、マヤ、ティオティワカンのいけにえの儀式なら古代ロマンもあろうが、現代アフリカにおける犠牲・・・掴めない。
この話の登場人物である二人は
自分自身の社会的位置に対して、モラルや世間体の縛りに対して、無志向、無関心。自身の生徒に訴えられても保身釈明すら試みないで離職。まるで他人事のように、一般事象を傍観するかのように生活も心情も遷移させていく。
もしかすると、これが、この穏やかさが、
ひとつの南ア的な心情の典型では、と思う。
(しかしふと思った。
日本もそうだ。というかそれが社会だ。基本だった!)
私の周りには南ア出身の白人がけっこういるが、やっぱりちょっと欧米人と違う。
彼らは最貧国マラウイで
社会の最下層のマラウイアンにとても穏やかに対応していて、
それはもう不思議なほど穏やかだ。
どんな無礼で卑俗な態度にも決して過剰反応しない。
つまり相手に何も期待していないし、施し要求にもさらっと応じている。その際にも、相手を馬鹿にしたり値踏みしたりといった比較的な心理の働き自体、ないように感じる。とにかく南アの白人は黒人との関係を良好に保つ術に長けている。
そのコツを折に触れて何度も聞いてみたが、
彼らはその処世術を殊更意識化していないようで、
つまり習慣なのであって、捉え所が難しい。
なぜわざわざこんな不便な国を選ぶのか理解に苦しむと伝えると、いかにも意外という反応。たいがい「アフリカの中でマラウイは特別、いい所だ」といった、“住めば都”的感想が返ってくる。
(しかししょっちゅう国外に出ている。)
私自身、常日頃、目の前に展開される人間模様や私自身のマラウイ人との関係において
事ある毎に思う。低い体勢でもみ手で話しかけられたりすると
この関係は
まるでカースト制度だなと。
だが
在マラウイ南ア人の世界は
ポスト・サルの惑星なのかもしれない。
(ポスト・コロニアルでは、決してない。)
問題は
アジア人の位置づけ。
または貧困無教養ゆえの差別意識。
そしてエジプトの革命やリビアの内戦、イランの英大使館襲撃等の動きなどから強く感じる
団結=個を返上したような構造、個の存在の弱体化も問題な気がする。
(ちなみに在マラウイのマラウイ生まれマラウイ育ちのインド人も、微妙な存在である。)
白人と黒人のの拮抗するようなバランスの軋みがアジア人蔑視。ということでクッツェーさん、ここも、描いてくれと頼みたい心境である。